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品川富士・御殿山 [しながわふじ・ごてんやま]   2019.1.30(2019.2.1作成)
東京の超低山ウォーキングの2回目は「江戸東京百名山を行く」という本を参考に品川界隈を歩いてみた。
江戸東京百名山67番の品川富士、64番の御殿山、69番の権現山、70番の大山、66番の八ツ山富士である。
ということでこの日のスタートは品川駅からで池上線の大崎広小路駅までのコースである。 この日のルートです。
route
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「品川富士・御殿山」ルートと時間
品川駅
八ツ山富士
御殿山
権現山
品川富士
大山
大崎広小路駅
品川駅
品川駅港南口を出て目の前の国道15号線・第一京浜を南に歩き始める。
左の京浜急行の高架下にこんなにラーメン屋などが並んでいたのかと驚きながら八ツ山橋方面に向かう。
第一京浜
八ツ山橋
八ツ山橋を渡ると東海道線と並行して「八ツ山コミュニティー道路」というのがあり そこに小さな築山 「八ツ山富士」が あるはずであった。しかし 行ってみるとそれらしきものは無く、東海道の宿場名を彫った石柱が立ち並んでいる。
古いWebを見ると富士山のモニュメントが有った時期もあるらしい。
「八ツ山富士」が無かったので次の御殿山に向かう。
八ツ山
御殿山に向かうために国道を横切らねばならないが近くに横断歩道が見当たらないため 少し離れた北品川駅前にある 歩道橋に向かう。
歩道橋を渡り再び八ツ山方面に戻ってくると 御殿山の高級ビル群が見えている。
北品川
御殿山のビル
御殿山公園池
御殿山公園
新八ツ山橋を渡るとすぐ左に 御殿山公園に通じる遊歩道があったので 山手線脇のこの道を行く。
マリオットホテルの脇を通り 少し下った先に 御殿山公園の池があり 鴨が羽を休めていた。
ここは谷底なので 「御殿山」と言われていたあたりにある原美術館横まで登ってみる。原美術館の入り口は 反対側のようなので ここで「御殿山」登頂ということにして次の権現山に向かう。
御殿山から 山手線、東海道線、東海道新幹線など5路線にかかる狭くて長い橋を渡り右に曲がると少し先に権現山公園がある。
公園入口にある「権現山の桜」という案内板によれば この権現山も御殿山もあとで登る大山も一つながりだったものが 鉄道で3分割状態に なったようである。
権現山
権現山の桜
権現山公園はもともとは東海寺の境内で、御殿山と連なる高い丘でした。明治になって鉄道開通で分断され、 海軍省用地(のち鉄道院へ移管)となっていましたが、大正七年に品川町に払い下げられ、 松や桜の名所であった御殿山のような公園として開園しました。
権現山公園
権現山公園には いろいろな遊具があるが 遊具のない樹木の植わった山頂部に登り 次の品川富士(品川神社)に向かう。

権現山公園の前の道をまっすぐ東へ進み 国道15号を右に曲がればすぐに品川神社がある。
正面からみて 左手の高い場所が品川富士である。
品川神社
品川神社正面の階段は50段くらいあるが そのなかほどの左に鳥居があり、ここから品川富士の登山道が始まる。
鳥居をくぐればすぐに「1合目」の標柱があり、先には 2合目・3合目も見えている。
登山口
1合目
3合目
6合目
3合目を過ぎ緩い坂を登ればすぐに6合目までくる。そのまま進めば中間道なのか下山口に通じる。
ここで右側へ折り返し狭くて急な階段道へと進む。本格的登山道?を登り切れば品川富士の山頂である。

品川富士山頂展望

国土地理院の地図で確認すると麓(国道)は4mくらい、山頂が17mくらいである。
残念ながら本物の富士山や海は望めなかった。
登山道と反対にある 下山道から下る。
下山口
下山口からさらにくだると 品川富士の背面に「ぶじかえる」像と由来標があった。
品川神社富士塚
富士塚は、富士信仰の集団、富士講の人々が、富士山の遥拝場所として、 あるいは実際に富士山への登山ができない講員のために造った築山である。
品川神社の富士塚は、明治二年(1869)、北品川宿の丸嘉講社の講中三百人によって造られた。 神仏分離政策で一時破壊されたが、明治五年に再築し、大正十一年(1922)第一京浜国道建設の時現在地に移築された。
江戸後期に盛んだった民間信仰を知る上で、たいせつな文化財である。
ぶじかえる
御嶽神社
包丁塚
富士塚のあるところには浅間神社がよくあるが ここは御嶽神社があった。
また境内には 地元の鮨商組合が作った包丁塚もある。
さらに境内を回っていると 板垣退助の墓があるということなのでお参りしてみることにする。
本殿の裏を回っていくと小さな墓地があり そこに有名な「板垣死すとも自由は死せず」が 彫られたお墓がある。

品川神社正面の階段を降り、第一京浜、山手通りを次の大山目指して歩く。
板垣退助墓
山手通りの京浜東北線・東海道線のガードをくぐるとすぐ右手に「近代硝子工業發祥之地」の碑がある。碑の右手の細い道の先に東海寺の 大山墓地がある。
近代硝子工業發祥之地
大山墓地案内
大山墓地
京浜東北線沿いの細い道を進むと突き当たりに大山墓地の登り口がある。数メートル登れば大山の山頂である。
墓地の一角には沢庵和尚の墓があるが柵で囲われているので遠くからしか見ることはできない。
沢庵和尚の墓
高台の大山の山頂から南の方は視界が開けているが 三共の工場跡地であろうか JR東海が変電所建設を行っていた。 リニア新幹線用の変電所なのだろうか。
変電所が完成するとこの見晴らしもなくなってしまうのだろう。

山手通りまで戻り目黒川にかかる寄木橋を渡り大崎駅方面に向かう。
工事現場
寄木橋
大崎駅
当初は大崎駅で終了のつもりでいたが 歩いた距離が短く物足りなかったので さらに山手通りを進み帰宅に便利な池上線の大崎広小路駅を目指す。
大崎警察署のところまで来ると「峰原坂」の標識がある。その説明文に江戸時代にはこのあたりは谷山村と言ったと書かれている。 坂を登ったあたりが「谷山」なのではなかろうかと坂を登って最高部を一回りしてみることにした。
坂の途中に立正大学があるが 昔の谷山を思わせるものは見当たらず 一回りして大崎警察署まで戻る。
峰原坂
立正大学
大崎警察署から大崎広小路駅まではすぐである。この日のウォーキングもここまでで6Kmほどであった。
少し物足りない感じであるが 1回に巡る「江戸東京百名山」の数を増やせばあっという間に全山踏破してしまいそうで 悩ましいところである。これからは少し寄り道をふやすか・・・。
大崎広小路駅

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